お風呂での気付き、第二弾。
第一弾は心に明かりを。
電球、すぐに取り替えましたよ。
前よりも、
明るくなりました(^^)
でも、
白色なので、
ちょっと、
落ち着かない感じがしちゃうんですけどね。
で、
取り替えた電球を見ながら
思ったんですけど、
お風呂場の電球って、
保護するためにカバーを付けますよね。
そうすると、
ちょうど良い具合に光が拡散して、
柔らかい光になります。
どんなに強烈な光であっても、
カバーをかけると、
印象が変わるんですよね。
なんだか、
人に似てますね。
人という存在も、
光の上に、
「体」を被せた存在です。
ほとんどの人は、
中の光が見えないですが、
中には、
イエスや、
お釈迦様のように、
光が溢れ出す人もいます。
オーラもある意味、
光が「体」から
滲み出したものかもしれないですよね。
この「体」には、
人が持つ観念も含まれます。
その、
人の持つ観念で変換された光が、
オーラなのかもしれないですよね。
では、何故、
光の存在である人は、
この分厚い「体」を
身にまとっているのでしょうか。
最終的には、
光の存在同士になるんでしょうけど。
たとえ電球であっても、
直接見るのは、眩しいですよね。
光の存在そのものを、
「体」をまとった人が見ると、
眩しすぎるんですよね。
だから、
イエスを見た人たちは、
あまりの光に目が
眩んだのではないでしょうか。
そして、
強烈であるがゆえに、
恐怖も生んだのでしょうね。
本来は、
自分の中からの光を、
調節するために身につけた「体」を、
外の光から守るための鎧として
使ってしまっている。
更に強固な「体」を作ろうとして、
何層にも観念を
重ね合わせてしまったんですね。
そして、
いつしか光が見えなくなってしまった。
自分が光の存在であることを忘れてしまった。
なんてことに、
なっているんでしょうね。
今は、
どんなに目を凝らしてみても、
目の前の人の光は見えないかもしれません。
とはいえ、
その光を見ることよりも、
まずは自分の中の光を
感じることが大切なんですよね。
不必要な観念を
脱ぎ去っていくことなんですよね。
誰か一人が光輝くことではなく、
一人ひとりが光輝くこと。
今の時代に必要なのは、
人々を照らす
仰ぎ見るような強烈な光ではなく、
それぞれが輝き、
お互いを照らし出し、
全体として輝くことなんですよね。
そして、
お互いが、
自分の中の光に気付けば、
もうこの「体」なんて、
いらなくなるのでしょうね。
まあ、その前に、
半物質の存在になるそうですが。
たった一個の電球が切れただけで、
これだけのことが分かるなんて、
やっぱり人生は面白いですね。
ここまで
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