もう卑屈になってなんかいられない

何故人は
卑屈になるのでしょうか。

「卑屈」とは
大辞泉によると

いじけて、必要以上に自分をいやしめること。また、そのさま。

「いじける」は

ひねくれて、すなおでなくなる。すねたようすをする。

「いやしめる」は

下品な、とるに足りないものとして見下げる。軽蔑する。さげすむ。

自分に
素直になれなくて
自分自身を
軽蔑し
さげすむ行為
といったところでしょかね。

まず
子供の頃に
素直な自分の感情を
そのまま認めることが許されなかった
ということがあると思うんですね。

素晴らしい自分や
ダメな自分
どんな自分であっても
自分なのだと感じられる自分を。

さらに
成長する中で
自分であることよりも
世間の価値観に合わせることを
求められた。

自分であることを否定する見方を
教えてもらったわけですね。

その中で
どうせ自分は・・・と

自分自身を
ダメな奴だと
扱ってきたんですね。

しかし
それでは辛いので
最初から
人より
自分を低い位置に置いて
感情の上下動を抑えて
安定させてきたんですね。

自分自身にさえ
気付かせないようにしてきたわけです。

でも
どこかで
寂しさを感じていたはずなんですね。

自分が
自分のことを
分かってあげられなかった寂しさです。

あなたが
変わりたいと思うと
変われる時が来ると

その卑屈さに
気づかせてくれる人が現れます。

あなたを
見下げて
軽蔑するような態度をする人が
現れたりします。

もちろん
もうそんなことをやめなよと
直接
言ってくれる人だっています。

そこで
気づき
変われたら
最高なんでしょうけど

なかなか
そうは簡単に
変われないですよね。

散々
変わろうと努力したって
周りの大人達は
誰も分かってくれなかったわけですからね。

全ては
無駄な努力だと思ったとしても
無理はありません。

もう
自分の殻に
閉じ籠もるしかないですよね。

見かけ上
全てを
丸く収めるために
自分を
役立たずの位置に置いてきたわけです。

でも
もう
そんな自分にも
疲れてきたんじゃないかと思うんですね。

自分を蔑むのにも
エネルギーは要りますから。

そろそろ
楽になりたいなと

自分らしく生きたいと。

仕方なく
卑屈に生きてきたけれど

今はもう
あなたに対して
卑屈に生きることを
強要出来る存在はいません。

そもそも
それを本当に
望んでいる人なんていなかったんです。

誰も
自分のやっていることに
気付けなかっただけなんですよね。

ただ
既存の価値観を
再生してしまっていただけ。

だから
たとえ誰かのせいにしても
結局
何も得るものはありません。

誰かが気づいて止める
そして
変えていく。

ある意味
これは

どんな
呪われたような状況であっても

自分には
どうしようも出来ないように
見える状況であっても

自分には
出来るのだということ

自分が
変えていけるのだということを

しっかり
経験しているのかもしれません。

もっと言えば
自分は
自分の本質を知りたいんですよね。

自分が本当は
どんな人間であるのかを知りたい。

どんなに卑屈になっても
どんなに自分を否定しても
最後に自分の中に何かが残る

その何かを知りたい。

犠牲者である自分
その位置から
何とか出来るかもしれない自分へのシフト

困難は伴いますが
とてもとても
大切な気づきです。

自分が
自分を許してあげる。

それが
結果的に
周りの人々を
許してあげることにもなります。

それは
とても気持ちの良いことだと思いません?

別に
上から目線とかではありません。

ただ
ありのままを認めるということです。

何も卑屈になる理由はないはずです。

むしろ
よくやってきたなと
思えるのではないでしょうか。

卑屈な中でも
我を失わず
何とかやってきじゃないかと

そして

自分の人生で
大事なことに気づき始めている。

人は
きっと
卑屈なままでは
生きられないのだと思います。

人生が
変わる時が来ます。

少しずつ変わるのか
大きく変わるのか。

もう少し
卑屈なままで
変わる時を待つのか。

決めるのはあなた次第です。

それは
もちろん
ポジティブな意味で、です^^

ここまで
読んでいただき
ありがとうございます。

是非読んだ感想をお問い合わせにてお送りください。


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